言葉による説得でも、倫理観の押し付けでもない。メルエムの揺るぎない全能感を揺さぶったのは、縦横の盤上に展開される白黒の駒の動きだけだった。
キメラ=アントの王として生まれたメルエムにとって、人間は単なる「食料」であり「下等生物」に過ぎなかった。国家の指導者や武術の達人を次々と打ち負かし、自らの力に疑問の余地すら抱いていなかった彼が、東ゴルトーの宮殿で巡り合ったのがコムギである。彼女は鼻水を垂らし、言葉遣いも覚束ない盲目の地方チャンピオンだった。しかし、盤上に限っては全く異なる存在へと変貌を抑えきれなかった。メルエムが繰り出すいかなる奇策も、彼女が紡ぎ出す「孤孤狸固(ココリコ)」の詰み筋によってことごとく打ち砕かれる。
王は初めて「勝てない存在」に直面した。そして同時に、暴力や権力では決して屈服させられない人間の尊厳と領域を知る。対局を重ねるごとに、盤面を挟んだ二人の空間は純粋な知の格闘場から、魂と魂が直接対話する場所へと変容していったのだ。