北方地域の領有権が近代国家の間でどのように定められてきたのかを俯瞰すると、国境線の移動が極めてダイナミックであったことが理解できます。
近代における日露の本格的な国境交渉は、1855年の日露和親条約(下田条約)から始まります。この条約において、日本とロシアは択捉島と得撫(ウラップ)島の間を平和裏に国境と定めました。この時点で得撫島より北の千島列島およびカムチャッカ半島はロシア領、択捉島以南の北方四島は日本領、そして樺太(サハリン)は国境を画定せず「両国民混住の地」とされました。
しかし、樺太における日露の住民トラブルが頻発したため、明治政府は1875年に千島樺太交換条約を締結。全樺太をロシア領とする代わりに、得撫島から最北端の占守島に至る千島列島18島を日本領としました。この結果、日本は千島列島最北端の幌筵島(パラムシル島)や占守島を含む広大な島嶼群を正当な領土として統治することになります。
激動の転換点となったのが、1945年8月の終戦前後に起きた悲劇です。ソ連はヤルタ密約に基づき対日参戦し、日本がポツダム宣言を受託した後の1945年8月18日未明、カムチャッカ半島から出撃したソ連赤軍が占守島へ奇襲上陸を敢行しました。これに対し、樋口季一郎中将率いる第五方面軍・独立混成第91師団などの日本軍守備隊が猛然と反撃したのが占守島の戦いです。
日本軍守備隊はソ連軍に壊滅的損害を与えて上陸を食い止め、停戦交渉に至るまでの時間を稼ぎました。この英雄的な防衛戦がソ連軍の進撃計画を大幅に狂わせ、北海道本島北部へのソ連侵攻を断念させる決定打となったことは、戦史研究者の間で広く一致した見解となっています。このときソ連軍がカムチャッカ半島を反撃の兵站基地として使用した歴史もまた、カムチャッカと日本の国境史が強く結びついて語られる理由の一つです。