長年にわたり時代劇や大衆小説で描かれてきた定番の構図が、「尾張派(武断派)を束ねるねね」対「近江派(文治派)を操る茶々」の骨肉の権力闘争です。しかし、2000年代以降の史料批判や古文書精査において、このおねと茶々の関係真相はほぼフィクションであることが定説化しています。
当時の一次記録(『言経卿記』や各大名の往復書状)を解析しても、ねねと茶々が直接対立した証拠は一行たりとも見つかりません。むしろ、茶々が秀頼を産んだ際、ねねは養育に関わる諸行事に正妻として主導的に関与しており、茶々もまたねねに対して終始「正室への臣従と敬意」を行動で示しています。
慶長3年(1598年)の「醍醐の花見」において、杯を交わす席次を巡って淀殿と松の丸殿が争い、ねねが仲裁に入ったエピソードは有名ですが、これは序列第一位の座が揺るぎなくねねにあったからこそ成立した調停です。秀吉の没後、ねねが大坂城西の丸を去って京都へ移ったのも、「後継者・秀頼の母である淀殿に本丸の権威を委ねる」という極めて整然とした公的役割の移譲であり、私的な絶縁や逃亡ではありませんでした。