幕末の京都を震撼させた剣客集団・新選組といえば、袖口に白い山形のジグザグが入った「浅葱色のだんだら模様」の羽織姿が脳裏に浮かびます。歴史ドラマやアニメ作品でも鉄板のビジュアルですが、なぜ局長の近藤勇や土方歳三らは、この浅葱色を隊服のメインカラーに選んだのでしょうか。
定説として最も有力な動機は、歌舞伎狂言『仮名手本忠臣蔵』への強いオマージュです。赤穂浪士四十七士が吉良邸討ち入り時に着用した火消装束風の羽織がだんだら模様であり、幕府のために命を捨てる「赤穂義士の至誠と忠義」にあやかろうとした設計思想が存在しました。また、浅葱色は武士が切腹の際に纏う白装束の裃(かみしも)に用いられた色でもあり、「いつ何時でも命を投げ出す覚悟」を視覚化したものと喧伝されてきました。
ところが、後世に残された当事者たちの一次資料を精査すると、現場における運用の実態はまるで異なっています。
新選組の屯所となった壬生郷士・八木家の八木為三郎の手記や当時の京都町人の記録によると、このだんだら羽織が実際に隊士によって着用された期間は極めて短く、結成初期の1863年から1864年(元治元年)の「池田屋事件」の前後まで、実質1年足らずで事実上の廃止に追い込まれていました。池田屋事件の突入時、近藤勇や沖田総司らごく一部の幹部は着用していましたが、それ以降の公の場や実戦の記録から浅葱色の羽織は完全に姿を消し、実戦的で汚れの目立たない「黒または濃紺の着物」へと切り替えられたのです。
なぜ鳴り物入りで誂えられた浅葱色の羽織は短期間で放棄されたのか。その理由は極めて現実的なものでした。鮮やかな浅葱色は京都の夜間市街戦において敵から位置を特定されやすく、返り血を浴びると異様なほど目立って不潔感を晒してしまう点。さらに、隊士自身から「派手すぎてまるで芝居の役者のようだ」「切腹装束を連想させて縁起が悪い」と不満が噴出したためです。現代人が抱く「新選組=浅葱色の隊服で最後まで戦い抜いた」という強烈なイメージは、実は後世の講談や映画、創作物によって増幅されたフィクションの側面を多分に孕んでいます。