大河ドラマなどの創作物では、「信心深い明智光秀が信長の非道な焼き討ちに涙ながらに反対し、二人の確執が深まった」という筋立てが長年好まれてきました。しかし、一次史料が証明する光秀の姿は正反対です。光秀はこの作戦計画段階から深く関与し、実務部隊の主力を率いて冷徹に任務を遂行していました。
焼き討ち直前の元亀2年9月2日付で光秀が近江の在地領主・和田秀純に宛てた書状(『和田家文書』)には、「仰せの通り比叡山の儀、調印せしめ候」「比叡山の悪僧どもを一人残らず殲滅すべし」といった趣旨の極めて断固たる指示が記されています。光秀は躊躇するどころか、逃亡ルートを塞ぎ敵を完全に包囲するための実務的軍事統制を完璧に指揮していました。
作戦成功後、信長は光秀の功績を絶賛し、戦後処理の要所である近江国志賀郡(現在の滋賀県大津市周辺)の支配権を与えました。光秀は琵琶湖畔に天下無双と称された坂本城を築城し、織田家家臣団の中で真っ先に一国一城の主へと大出世を遂げました。光秀にとって比叡山焼き討ちは、織田家中での出世競争を決定づけた最大の軍事的勝利だったのです。