太平洋戦争における日本の商船損失は壊滅的だった。開戦から終戦までの約3年9ヶ月で、日本は約2,500隻、約850万トンの商船を失った。そのうち約60%が米国潜水艦による攻撃だった。
南方航路は特に危険だった。フィリピン、インドネシア、ニューギニア——これらの地域と日本本土を結ぶ海路は、「魔の海域」と呼ばれた。米海軍の潜水艦は、日本の輸送船団を執拗に狙った。護衛の駆逐艦があっても、潜水艦の攻撃を完全に防ぐことは不可能だった。
盛運丸も何度か危機に直面したとされる。ある航海では、同じ船団の船が次々と沈められる中、辛うじて生き延びた。別の航海では、爆撃を受けて船体に損傷を負いながらも、なんとか港にたどり着いた。運が良かったのか、船長の判断が優れていたのか。おそらくその両方だろう。
船団護衛システムの限界
日本海軍は、商船を護衛するための船団方式を採用していた。複数の貨物船を集め、駆逐艦や海防艦が護衛する。理論的には効果的なはずだった。しかし現実は厳しかった。
護衛艦の数が圧倒的に不足していた。米軍の潜水艦は高性能で、日本の対潜水艦技術は遅れていた。さらに1944年以降、米軍の航空優勢が確立されると、昼間の航行すら危険になった。盛運丸のような船は、夜間航行や悪天候を利用して、必死に生き延びようとした。