大島渚の表現活動の原点は、京都大学法学部時代に培われた鋭敏な社会批評眼と学生運動の経験にあります。1954年に松竹大船撮影所へ入社すると、助監督時代から既存の撮影所システムを痛烈に批判する映画論文を発表。1959年に『愛と希望の街』で監督デビューを飾ると、翌1960年には『青春残酷物語』を発表し、若者の鬱屈と社会の矛盾を生々しく活写して社会現象を巻き起こしました。
この動きはフランスの映画運動になぞらえて「松竹ヌーヴェルヴァーグ」と呼ばれ、日本映画に新たな変革の波をもたらします。しかし、安保闘争を直接扱った『日本の夜と霧』が公開からわずか4日で上映打ち切りに遭うと、大島渚は松竹を退社。独立プロダクション「創造社」を設立し、商業主義に縛られない独自の表現領域を切り拓いていきました。
妥協を一切許さない創作姿勢は、既存の映画配給ルートに頼らない「ATG(日本アート・シアター・ギルド)」との連携へと結実し、『絞死刑』や『儀式』といった重厚な社会派作品を次々と生み出す原動力となったのです。