小西行長を語る上で避けて通れないのが、同僚であり生涯の宿敵となった加藤清正との確執です。肥後国に入部した際、北半国約25万石(熊本城)を清正が、南半国約24万石(宇土城)を行長が統治することになり、隣り合う領国境を巡って当初から対立の火種を抱えていました。
二人の対立が決定的となった契機が、文禄元年(1592年)から始まった朝鮮出兵(文禄・慶長の役)です。行長は第一軍の先鋒として釜山に上陸し、平壌を瞬く間に占領する武功を挙げましたが、戦線が膠着すると明・朝鮮側との早期和平を主張。明の使節・沈惟敬と連携し、講和交渉を主導しました。これに対し、第二軍を率いた武断派の筆頭・加藤清正は領土拡大を主張して徹底抗戦を叫び、行長を「敵と内通して偽りの講和を進めている」と秀吉に激しく糾弾しました。
文治派の領袖である石田三成と結んだ行長と、現場で血を流す武断派の清正。政治路線の違いに加え、熱烈な日蓮宗信徒であった清正と敬虔なキリシタンであった行長の宗教的信条の差異も、両者の対立を修復不可能なレベルへと深めました。