普仏戦争とは?ビスマルクの電報改ざんとナポレオン3世敗北の全真相

普仏戦争とは?ビスマルクの電報改ざんとナポレオン3世敗北の全真相

普仏戦争とは?ビスマルクの電報改ざんとナポレオン3世敗北の全真相とは一体何なのか? 背景や要点を丁寧に紐解いて紹介します。

ナポレオン3世が降伏した後も戦争は終わりませんでした。新設されたフランス国防政府は抵抗を続けたものの、1870年9月19日にはプロイセン軍によってパリが完全に包囲されます。およそ4か月に及ぶ過酷な包囲戦の中で、パリ市民は飢餓に苦しみ、動物園の動物やネズミまで食糧にする極限状態へと追い詰められました。

そして1871年1月18日、プロイセン側はフランスにとって最大の屈辱となる儀礼を挙行します。かつてルイ14世が君臨したフランス絶対王政の象徴、ヴェルサイユ宮殿の「鏡の間」において、ヴィルヘルム1世のドイツ皇帝戴冠式を強行し、ドイツ帝国(ライヒ)の成立を全世界に高らかに宣言したのです。

1871年5月に締結されたフランクフルト講和条約において、敗戦国フランスには過酷な条件が突きつけられました。

  • アルザス・ロレーヌ地方(エルザス・ロートリンゲン)の割譲:鉄鉱石や石炭が豊富な重要工業地帯の喪失。
  • 50億フランという未曾有の戦争賠償金:プロイセン軍の駐屯費用をフランス側が負担し、完納まで軍が駐留。

この屈辱的な講和と臨時政府の弱腰姿勢に憤ったパリの労働者や市民は蜂起し、1871年3月、人類史上初となる労働者階級の自治政府「パリ・コミューン」を樹立しました。しかし、ビスマルクから捕虜の早期釈放などの支援を受けたフランス臨時政府軍(ティエール政権)によって厳しく弾圧されます。5月下旬の「血の週間」と呼ばれる市街戦では約2万人とも言われる市民が命を落とし、パリ市街は炎と血煙に包まれて終焉を迎えました。

中島 亮太
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中島 亮太

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