児玉誉士夫という人物を一言で定義するならば、「表の国家権力が公式には行使できない非合法・非公式な政治工作を一手に引き受けた影の権力執行者」といえます。1911年(明治44年)に福島県安達郡本宮町(現・本宮市)で生まれた児玉は、幼少期に過酷な貧困と家庭崩壊を経験し、10代前半で朝鮮半島に渡るなど辛酸を舐めました。この初期の生い立ちが、既存の社会秩序に対する激しい反発と国家主義思想への傾倒を形作ることになります。
日本へ帰国後、国粋主義団体「急進愛国党」や「独立青年社」に参加した児玉は、1930年代の激動期においてテロリズムを含む過激な直接行動に手を染めました。井上準之助蔵相への脅迫状送付による投獄や、1933年の「斎藤実首相暗殺予備事件(十月事件)」で投獄されるなど、青年期は徹底した国家主義的行動派として名を馳せました。
当時の獄中手記や自著『われ敗れたり』において、児玉は「国家の革新のためには自らの命も法も顧みない」という特異な信念を吐露しています。単なる狂信的な活動家にとどまらず、獄中で政財界の有力者と知己を得て人間心理の機微と交渉術を冷徹に学んだ点が、後の大物フィクサーへの跳躍台となりました。
戦後はA級戦犯容疑者として巣鴨プリズンに収容されながらも、1948年12月に不起訴処分で釈放。この出獄を境に、児玉は路上の暴力的な右翼運動から脱皮し、自民党への強力な影響力と財界・裏社会を結ぶ唯一無二の調停者へと変貌を遂げていきました。