鈴木杏樹という存在を語る上で欠かせないのが、テレビ朝日系『相棒』における小料理屋「花の里」の2代目女将・月本幸子役です。元々は「ついてない女」という不遇な容疑者として登場しながら、杉下右京(水谷豊)との関わりを経て更生し、シーズン10から長年にわたりレギュラーとして作品の温かなオアシスを担いました。それだけに、2019年3月に放送されたシーズン17の第19話をもって突如として番組を去った際には、視聴者の間に大きな動揺が走りました。
当時、ネット上では「制作陣との不仲説」や「体調不良説」など無数の憶測が飛び交いましたが、相棒の降板理由は純粋なステップアップによる円満卒業でした。作中では「自立した料理人として新たな道を歩むために旅立つ」という筋書きが用意され、水谷豊をはじめとするキャスト陣からも温かく送り出されています。所属事務所や関係者の証言によると、鈴木自身が50歳という人生の節目を目前に控え、「一つの役に安住せず、もう一度演劇人として外の世界で勝負したい」という強い意思を制作側に伝えたことが真相とされています。
この決断の根底には、2013年2月に起きた最愛の夫・山形基夫氏との死別という過酷な経験が影を落としています。当時、大手病院の外科医として活躍していた山形氏は重い肝疾患を患い、渡米して生体肝移植の手術を受ける直前に容態が急変し、56歳の若さで帰らぬ人となりました。当時、鈴木は日本テレビ系情報番組『ZIP!』の金曜メインパーソナリティーを務めており、夫の訃報が届いた翌日も気丈に生放送のスタジオに立ち続けました。
当時の特番インタビューや手記において鈴木は、「当たり前にある日常が一瞬で消えてしまう現実を身をもって知った」と吐露しています。人生の有限性を痛烈に意識した経験が、その後のキャリアにおいて「与えられた枠組みに留まるのではなく、自らの足で新たな表現の場を開拓する」という強い動機へと昇華されたことは間違いありません。情報番組のレギュラーを段階的に整理し、舞台演劇へと舵を切った背景には、人生の優先順位を明確に見定めた本人の強い意志が存在します。