この名句がどのような状況下で生み出されたのか、松尾芭蕉 最期の様子と経緯を辿ると、元禄期における俳壇の対立と、それに巻き込まれながら命を削った巨人の痛ましい姿が記録されています。
芭蕉が最後の旅に出たのは元禄7年(1694年)5月のことでした。故郷の伊賀上野や京都を経て大坂(現在の大阪市)に入った芭蕉を出迎えたのは、門人たち(之道派と芝州派)の激しい主導権争いでした。芭蕉はこの両者の確執を調停しようと心労を重ね、連日の連歌興行や歓楽街の熱気、そして疲労によって急激に体調を崩していきます。
松尾芭蕉 死因 詳細まとめとして、当時の記録である『花屋日記』や『枯野抄』を検証すると、芭蕉は1694年9月下旬から激しい腹痛と下痢を発症していました。いわゆる「霍乱(かくらん)」や激しい下痢便、発熱が続いており、現代の医学的見地からは「急性感染性腸炎(細菌性赤痢またはサルモネラ感染症など)」、あるいは過度なストレスによる潰瘍性大腸炎の悪化が死因であったと強く推定されています。
10月5日、病状の悪化を見かねた弟子たちは、芭蕉を南御堂前の貸座敷から御堂筋の油商人・花屋仁左衛門の離れへと移送しました。しかし病勢は衰えず、便器に血が混じるほどの重態に陥ります。そのような極限状態のなか、10月8日夜から9日未明にかけて、灯火の揺れる病床で弟子たちを呼び寄せ、震える筆で書き留めさせたのが、この「枯野」の句でした。
手記によると、枕元に控えていた弟子の宝井其角や森川許六らは、師が発した尋常ならざる気迫に圧倒され、ただ涙を呑んでその文字を書き留めたと記されています。そして発病から約半月後の元禄7年10月12日(新暦1694年11月28日)申の刻(午後4時頃)、芭蕉は弟子たちに看取られながら51歳の短い生涯を閉じました。