なぜこれほど魅力的な女性たちを輩出した干支が、過去には忌み嫌われていたのでしょうか。丙午の迷信の理由を歴史的に紐解くと、古代中国の自然哲学である「陰陽五行思想」と、江戸時代に起きた実際の火災事件が複雑に絡み合っていることが分かります。
十干の「丙(ひのえ)」は火の兄(陽の火)を指し、十二支の「午(うま)」もまた火の性質を持っています。火と火が重なることから「火勢が猛烈で激しい年」と解釈されたことが発端でした。これに決定打を与えたのが、1683年に江戸で起きた放火未遂事件の当事者・八百屋お七にまつわる伝説です。
恋人に会いたい一心で放火を図り火刑に処されたお七が「1666年(寛文6年)の丙午生まれだった」という風説が市井に広まりました。井原西鶴の『好色五人女』や歌舞伎・浄瑠璃などの大衆演芸がこのエピソードを劇的に脚色したことで、「丙午生まれの女性は情熱が激しすぎて身を滅ぼす」「夫の命を縮める」という根拠のない俗説が民衆の意識に深く刻み込まれてしまったのです。
この迷信の悪影響が近代に至っても残存していた証拠が、昭和41年(1966年)における出生率の低下です。当時の日本は高度経済成長期の只中にあり、家族計画や避妊知識が一般に普及し始めていた時期でした。将来の縁談を心配した親世代が意図的に受胎を避けたり、出産時期を前後にずらす動きが全国規模で発生しました。その結果、1966年の出生数は前年の約182万人から約136万人へと約46万人も激減し、合計特殊出生率は当時としては過去最低の1.58を記録したのです。