ネット上の掲示板やSNSでは時折、「秀長は秀吉や対立勢力に毒殺されたのではないか」「権力を恐れた秀吉による謀殺説」といった奇抜な言説が散見されます。しかし、歴史学および現存する史料の客観的検証において、毒殺・謀殺説は完全に否定されています。
第一に、秀吉にとって秀長は単なる肉親を超え、自らの権力を具現化するための「唯一無二の代行者」でした。九州平定や紀州征伐の総大将を任せ、大和・紀伊・和泉という畿内の最重要防衛ラインを一任していたことからも、秀長を失うことは秀吉自身の権力基盤を削る自殺行為にほかなりませんでした。
第二に、『多聞院日記』をはじめとする複数の第三者記録において、秀長の病状は1年以上にわたり緩慢に悪化していった経緯が記されています。当時の毒物で数ヶ月から1年にわたって衰弱をコントロールすることは技術的に不可能です。これらの客観的証拠から、謀殺説は後世の創作やセンセーショナリズムに過ぎず、死因は過酷な軍務の蓄積と病魔による自然死であったと結論づけられます。