日本国内で「パージ」という外来語が国民的規模で認知された背景には、昭和史を決定づけた2つの巨大な国家事象が存在します。それがGHQ(連合国軍最高司令官総司令部)による「公職追放」と、東西冷戦の激化に伴う「レッドパージ」です。
敗戦直後の1946年から始まった公職追放とパージの真相を振り返ると、軍国主義者や戦争指導者とみなされた軍人、政治家、官僚、財界人など、実に約21万人以上が国家中枢や指導的地位から強制的に排除されました。この命令は英語で「Purge Directive」と呼ばれ、これが「パージ=公職からの追放」という日本語の定着に直結しました。当時は新聞の一面に追放者リストが連日掲載され、名門財閥の解体や政界の世代交代を一気に加速させる原動力となった歴史があります。
しかし、1940年代後半からアメリカとソビエト連邦の冷戦構造が決定的なものになると、GHQの対日方針は「日本の非軍事化」から「東アジアの反共の防波堤化」へと急旋回します。いわゆる「逆コース」の波の中で起きたのがレッドパージの歴史と経緯です。1949年から1950年にかけ、日本共産党員やその同調者(シンパ)と目された人々が、官公庁、NHK、新聞社、主要民間企業から次々と解雇・追放されました。
当時の当事者が残した手記や労働運動の記録資料によると、「朝出社するとデスクの引き出しが施錠され、人事部へ呼び出されてその場で即時解雇通知書を手渡された」「身に覚えのない思想信条の疑いをかけられ、反論の機会すら与えられなかった」といった生々しい証言が数多く残されています。民間企業だけで約1万1000人以上、官公庁を含めると1万3000人規模の人々が職を奪われました。排除された労働者とその家族は長期にわたる社会的孤立や経済的困窮を強いられ、法廷闘争は平成・令和の時代に至るまで爪痕を残し続けました。「パージ」という言葉に今なお冷徹で理不尽な響きがつきまとうのは、この歴史的記憶が色濃く影を落としているからです。