大河ドラマや時代劇で定番となっているのが、「尾張派武断派を牛耳るねね」と「近江派文治派を率いる茶々」という対立構図です。関ヶ原の戦いにおいて、ねねが徳川家康に通じ、東軍の勝利を後押ししたというストーリーは広く親しまれてきました。しかし、この「ねね・茶々不仲説」は現代の歴史学において完全に否定されています。
当時の公家の日記や豊臣家内部の書状を精査すると、二人が激しく対立した形跡はどこにも見当たりません。むしろ、以下のような良好な連帯を示す事実が次々と確認されています。
- 秀吉存命中、茶々が秀頼を出産した際、ねねは使者を送り手厚い祝品を届けて無事を寿いでいる。
- 醍醐の花見(1598年)では、杯を交わす順番を巡って松の丸殿と茶々が口論になった際、正室のねねが仲裁に入り場を収めた記録が残る。
- 秀吉没後、ねねが大坂城西の丸を退去して京都へ移る際も、茶々との間で儀礼的な贈答が滞りなく交わされている。
では、なぜ秀吉と正室ねねの間に子供ができなかったのでしょうか。後世には「ねねの不妊症」ばかりが取り沙汰されてきましたが、客観的に見れば秀吉自身の生殖能力に起因していた可能性が極めて濃厚です。秀吉は16人以上の側室を持ちながら、子を産んだのは茶々(二子)と、初期の側室・南殿(諸説あり)のみ。医学的知見を交えた近年の歴史学的分析では、秀吉は強い乏精子症、あるいは加齢による生殖機能低下を抱えていたという見方が有力視されています。
ここで浮上するのが、古くから囁かれる「豊臣秀頼の父親は本当に秀吉なのか」という真相論争です。秀吉が50代半ばを過ぎてから茶々だけが立て続けに二度懐妊したこと、当時の秀吉の肖像画が小柄で華奢であるのに対し、秀頼は成人後に「身長197cm、体重160kg」とも伝えられる堂々たる巨漢へ成長したこと(『長沢聞書』などの記録)から、茶々と側近・大野治長との密通説が当時から巷間で噂されました。
しかし、現代の歴史考証において「密通による私生児説」は否定的な見解が主流です。なぜなら、秀吉の厳重な監視下にあった大坂城奥向きにおいて、主君を欺いて密通を果たすことは物理的に極めて困難だったからです。さらに秀吉自身が秀頼の誕生を狂喜乱舞して受け入れ、自らの直筆書状で秀頼への盲目的な愛情を書き残している点からも、少なくとも秀吉自身は秀頼を我が子と確信していました。秀頼の巨躯についても、茶々の父・浅井長政や祖父・信長が大柄であったことから、母方の隔世遺伝として医学的に十分に説明がつきます。