SNSが生活のインフラとなった現在、私たちは日々流れてくる膨大な情報に対し、即座に極端な言葉で反応してしまいがちです。何か気に食わない出来事を目にすれば「悪魔の所業」と過激に糾弾し、少し目を見張るパフォーマンスを見れば「神の所業」と安易に消費する。このような過剰なラベリングは、短期的な共感を生む一方で、対象の複雑な文脈や当事者の背景を切り捨ててしまう危うさを孕んでいます。
社会心理学の視座に立てば、強い道義的断罪の言葉を使う行為は、他者との間に「心理的バウンダリー(境界線)」を引き、「自分はあちら側の異常な人間ではない」という自己防衛とアイデンティティの確認を図る作業でもあります。しかし、本質的な知性とは、物事を安易に白黒の極論に落とし込まず、その行為がどのような背景や因果律によって生じたのかを冷静に見極める力に他なりません。
「所業」という言葉が持つ、仏教的な因果の重みと歴史の厚みを正しく知ることは、単に語彙を増やすことにとどまりません。劇的なインパクトを狙うべき文芸・創作の場面と、冷静沈着な事実の検証が求められる実社会のコミュニケーションとを明確に峻別し、言葉が持つ本来の破壊力と価値をコントロールする姿勢こそが、情報が氾濫する時代を生きる書き手・読み手の双方に求められています。