国内で強弁を振るっていた明治新政府ですが、その傲慢な態度は、海外の現場で強烈な鉄槌を下されることになります。1871年(明治4年)冬、不平等条約の改正を目指して欧米へ旅立った岩倉使節団(特命全権大使・岩倉具視、副使・大久保利通、木戸孝允ら)が直面した外交的現実でした。
使節団が訪れたアメリカ、イギリス、フランス、プロイセンなどの首脳やメディアは、条約改正の交渉の席に着く以前に、日本のキリシタン弾圧を人道に対する罪として厳しく糾弾しました。「信教の自由すら認めず、異教徒を拷問・追放するような野蛮な国と、対等な条約を結べるはずがない」。キリスト教圏の世論は沸騰し、使節団は訪問先ごとに宗教団体や政府高官から激しい抗議文を突きつけられました。
欧米近代文明の圧倒的な国力を目の当たりにし、国際連帯の条件を肌で知った大久保や木戸らは、このままでは不平等条約の改正など永遠に不可能であると痛感。使節団はただちに日本本国へ緊急の電報と書簡を送り、禁教令の即時撤廃を要請しました。
追い詰められた留守政府(西郷隆盛、井上馨ら)は、方針を180度転換せざるを得なくなります。1873年(明治6年)2月24日、太政官布告第68号により、「高札類は取り外すべき旨」が布告され、五榜の掲示はすべて撤去されました。浦上から全国へ流刑となっていたキリシタンたちも故郷へと生還を果たします。
ただし、明治政府はこの時「キリスト教の信仰を公式に認める」と宣言したわけではありません。「高札の内容はすでに広く民衆に定着・周知されたため、板札を取り外すだけである」という苦しい理屈を掲げ、事実上の黙認という形で外圧をかわしたのです。日本で信教の自由が憲法上、条件付きで保障されるのは、1889年(明治22年)の大日本帝国憲法第28条の制定を待たねばなりませんでした。