秀長が最期の時を迎えた舞台は、自身が100万石余りの領地を統括する拠点として整備した大和郡山城(現在の奈良県大和郡山市)でした。天正18年の後半から病状は一進一退を繰り返し、秀長は城内の奥深くで静養を続けていました。
弟の容態悪化を知った秀吉の動揺は凄まじく、京都の有力寺社に対して病気平癒の大規模な祈祷を命じ、千利休に対しても秀長の見舞いや特別な薬の手配を依頼した記録が残されています。天下人として冷徹さを増していた秀吉が、唯一心を許し、政権の実質的な共同統治者として全幅の信頼を置いていた秀長への執着が垣間見えるエピソードです。
しかし祈祷の甲斐もなく、天正19年(1591年)1月22日、秀長は大和郡山城にて息を引き取りました。豊臣秀長 享年は51(満49歳前後)。天下統一の総仕上げとなった小田原征伐と奥州仕置が完了した直後、豊臣政権が絶頂期を迎えたまさにその瞬間の退場でした。
臨終に際して秀長は、自身の養子であり後見していた秀保(三好吉房の三男)への家督相続を願い出るとともに、最後まで兄の暴走と豊臣家の将来を案じていたと伝えられます。秀長の遺骸は大和郡山城下の大竜寺(現在の春岳院)に葬られ、後に「大納言塚」として手厚く祀られました。