「原曲は難しすぎるけれど、どうしてもあのメロディを自宅のピアノで奏でたい」という需要に対し、市場には「ドレミ振り仮名付き楽譜」や「ハ長調(調号なし)に移調された初心者向け簡単アレンジ楽譜」が多数流通しています。これらに対しては賛否両論が存在しますが、音楽教育的な観点からその功罪を公平に見極める必要があります。
まずメリットとして挙げられるのは、初期の挫折リスクを最小限に抑え、成功体験を得られる点です。黒鍵を減らし、リズムを単純な4分の3拍子に落とし込んだアレンジ譜面は、バイエル中盤程度の初歩レベルであっても数週間の練習でメロディを形にできます。「1曲通して弾けた」という達成感は、大人の趣味学習において練習継続の大きなモチベーションになります。
一方で、重大なデメリットや盲点も存在します。最大の問題は、ドビュッシーが企図した「色彩感あふれる和声(ハーモニー)の魔力」が失われてしまう点です。『月の光』が持つ得も言われぬ神秘的な響きは、変ニ長調特有の柔らかく深みのある音響特性と、9度・11度のテンションコード、そして全音音階的な響きが絡み合うことで生み出されています。これを安易にハ長調の主要三和音(ド・ミ・ソ、ファ・ラ・ドなど)へ置き換えてしまうと、昼の光のように乾いた響きとなり、ドビュッシー音楽の神髄とはかけ離れた別の曲に変質してしまいます。
また、音名(ドレミ)がすべての音符に印字された楽譜に依存しすぎると、五線譜から「音の跳躍の幅」や「和音の塊(スタック)」を視覚的に把握する認知機能が育ちません。将来的にクラシックの原曲を弾きたいと考えているならば、ドレミ付き楽譜はあくまで「最初の譜読みの補助輪」として限定的に使い、数小節ずつでも原曲の五線譜を読む訓練を並行させることが不可欠です。