1958年、新東宝に入社し映画界への一歩を踏み出した菅原。だが、当時の新東宝は経営難の渦中にあり、新人俳優に十分な育成環境は用意されていなかった。身長175センチ以上の若手俳優を集めた売り出し企画「ハンサムタワーズ」の一員として、吉田輝雄や高島忠夫らとともに売り出されたものの、与えられる役柄は二枚目の引き立て役やB級映画の端役が中心だった。
新東宝の倒産に伴い松竹へと移籍したものの、当時の松竹が求めていたのは大船調と呼ばれる甘いホームドラマや都会的な青春群像劇である。無骨でどこか反逆的な匂いを漂わせる菅原の個性は、ソフトな好青年が求められた松竹のカラーと決定的に噛み合わなかった。20代後半から30代前半にかけて、彼は自らの存在意義と才能の置き場を探し続け、芽の出ない鬱屈とした日々を耐え忍ぶこととなる。