結論から整理すると、現代の歴史学および宗教民俗学における知見では、「肉体(遺骨)は久能山東照宮に眠り、精神(神霊)が日光東照宮へ遷座された」という解釈が最も合理的とされています。しかし、両社寺の見解や江戸幕府の公式記録には細微な食い違いがあり、これこそが「日光と久能山どっちが本物なのか」という論争を生む火種となってきました。
静岡市駿河区に位置する久能山東照宮神廟は、家康の遺命により西向きに建てられた石造宝塔です。久能山側の伝承および『東照宮御実紀』などの記述によれば、家康の遺骸は駿府城で絶命した当夜、直ちに久能山へと運ばれ、土葬されたと伝わります。久能山東照宮の社伝では「遺骨を日光へ掘り起こして改葬した記録は一切存在しない」と主張されており、遺体は今も山頂の神廟深くに鎮座していると伝えられています。
一方で、栃木県日光市の山中に鎮座する日光東照宮奥社宝塔は、八角形の石段の上に鋳抜きの青銅製宝塔がそびえ立つ壮厳な霊廟です。幕府の公式記録『徳川実紀』には、元和3年(1617年)3月に久能山から日光へと棺を移送する大規模な行列が記録されています。この儀礼の際、「実際に遺柩(遺体)を掘り起こして日光へ運んだのか」、それとも「神霊を依代に移した象徴的な遷座行列だったのか」という点に、徳川家康の遺骨真相を読み解く最大の分岐点があります。