青年将校たちは「自分たちの純粋な行動は、必ずや天皇陛下に理解していただける」と信じ切っていました。しかし、その思惑は完全に打ち砕かれます。事件の一報を受けた昭和天皇は激怒しました。
天皇にとって、暗殺された要人たちは国家を支える忠臣であり、最も信頼していた「股肱(ここう)の臣」でした。無断で部隊を動かして重臣たちを虐殺した行為は、天皇への忠誠どころか明白な大権干犯であり、反逆そのものだったのです。
陸軍上層部の中には、皇道派に同情的な将軍たち(真崎甚三郎ら)が反乱軍の趣旨を認めようと曖昧な態度を取る動きもありました。これに対し、昭和天皇は側近の本庄繁侍従武官長らを激しく叱責し、毅然と言い放ちました。
「我が愛する股肱の臣を殺傷するがごとき、この精神のどこが軍の精神か。朕自ら近衛師団を率い、これが鎮圧に当たらん」
天皇の断固たる意志を受け、政府は東京に戒厳令を発令。事態は一転し、青年将校たちは「義軍」ではなく、国家に対する「反乱軍」として包囲・鎮圧される運命が決まりました。