もともと初代・徳川家康が築き、秀忠、家光の手で拡張された江戸城は、諸大名を威圧し、万が一の合戦に備えるための究極の軍事要塞だった。天守はその頂点に立つ監視塔であり、圧倒的な武威のモニュメントだったのだ。
だが、島原の乱を経て国内の戦乱が完全に終息した17世紀半ば、城に求められる機能は「戦う砦」から「官僚機構を収める行政庁」へと決定的にシフトしていた。本丸御殿や二の丸御殿さえ機能していれば、政治の実務に何の支障もない。天守を再建しなかった事実は、幕府が武力による威嚇統治から、法と官僚制度による文治政治へと完全に舵を切った決定的な証拠となった。