鐘が鳴るなり法隆寺の作者は?漱石との絆や東大寺説の真相を解剖

鐘が鳴るなり法隆寺の作者は?漱石との絆や東大寺説の真相を解剖

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「柿食えば鐘が鳴るなり法隆寺」は、子規が完全にゼロから思いついた突発的な着想ではありませんでした。その陰には、生涯の盟友でありライバルでもあった夏目漱石の存在が色濃く影を落としています。

1895年(明治28年)、日清戦争に従軍記者として渡航した子規は、過酷な現地で持病の結核が悪化して大量に喀血しました。帰国後、神戸の病院で療養した子規を温かく迎え入れたのが、当時愛媛県尋常中学校(現在の松山東高校)に英語教師として赴任していた漱石でした。二人は松山の下宿「愚陀仏庵(ぐだぶつあん)」で約52日間にわたる共同生活を送ります。

この同居生活の中で、子規は漱石に俳句の手ほどきを行い、文学を熱狂的に語り合いました。その際、漱石が詠んだ句の一つに次のような作品がありました。

「鐘鳴れば 猿が啼くなり 東大寺」(夏目漱石)

漱石のこの句は、奈良の東大寺を舞台に鐘の音と猿の声という聴覚的な情景を詠み込んだ、風情ある漢詩調の趣を持っています。子規はこの句を高く評価しつつも、自らの近代俳句の理念である「写生(生々しい実感の描写)」をもってこれを超える、あるいは漱石への粋な返歌を贈りたいという強い創作意欲を抱いていました。

松山を離れ、東京へ戻る道中で立ち寄った古都・奈良の地で、子規は漱石の「東大寺」と「鐘」のモチーフを意識しながら、自らの大好物である「柿」、そして「法隆寺」を対比させてあの名句を紡ぎ出したのです。友情と文学的対話が背景にあった事実を知ると、句の響きにいっそうの深みが感じられます。

渡辺 美咲
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渡辺 美咲

心身ともに健康で持続可能なライフスタイルをテーマに、最新のウェルネストレンドを発信中。