有岡城が開城した際、信長は尼崎城の村重に対して「城を明け渡せば妻子や家臣の命は助ける」という降伏条件を提示しました。しかし村重はこの要求を拒絶。交渉が決裂した瞬間、取り残された一族の運命は完全に閉ざされました。
天正7年12月13日、京都・六条河原の露と消えた荒木一族の処刑は、戦国期を通じて最も苛烈な見せしめの一つとなりました。引き立てられたのは、だしをはじめとする村重の妻子、重臣の妻や娘、侍女ら総勢122名に及びます。
処刑場に現れただしは、死装束の白小袖を身に纏い、その美しさは見物していた京の群衆を息をのませたと『信長公記』は伝えています。車から降り立った彼女は、取り乱して泣き叫ぶ周囲の女性たちを励まし、静かに手を合わせて念仏を唱えました。太刀取りが背後に立った瞬間も微動だにせず、首を差し伸べて刃を受けたその壮絶な散り際は、冷酷な信長配下の武将たちすら言葉を失うほどの威厳に満ちていました。享年はわずか21歳前後だったと推測されています。
だしが刑場へ向かう車の中で遺した辞世の句は、今も語り継がれています。
「きゆる身は 惜しむべきにも あらねども とまりて情けの なきぞ悲しき」
(露のように消え去る我が身は惜しくありませんが、生き残りながら慈悲の心を失ってしまったあなたのお姿こそが、ただただ悲しくてなりません)
この短歌は、自らの命を惜しむのではなく、一族を見捨てて生き恥を晒し続ける夫・村重への痛切な諫言であり、同時に武家の妻としての誇りと哀切が凝縮された叫びでした。