青年将校たちが凶行に及んだ根底には、当時の日本を覆っていた極度の社会不安と貧困があります。1929年の世界恐慌に端を発した昭和恐慌と、翌年以降の東北地方を襲った記録的な大凶作によって、地方の農村は娘を身売りに出さざるを得ず、子どもたちが弁当すら持ってこられない「欠食児童」が街にあふれる極限状態に追い込まれていました。
歩兵部隊の小隊長として最前線で兵士たちと寝食を共にしていた青年将校らは、部下である農村出身兵の手紙や実家の悲惨な叫びを日常的に目の当たりにしていました。「国のために血を流す兵士の家族がなぜ飢え死にしなければならないのか」。彼らは財閥や政治家、特権階級が私利私欲を貪り、国民の苦しみを顧みない「君側の奸(くんそくのかん=天皇の周りにいる悪人ども)」であると激しい憎悪を募らせていきました。
彼らが掲げたスローガンが「昭和維新」と「尊皇討奸」です。腐敗した政治家や財閥を武力で排除し、昭和天皇に政治の全権を握っていただく「天皇親政」を実現すれば、民衆の苦しみが救われるという純粋かつ狂信的な信念でした。この思想的バックボーンとなったのが、国家社会主義思想家の北一輝が著した『日本改造法案大綱』でした。皇室を中心とした軍事政権の樹立と私有財産の制限を説いたこの書は、血気盛んな青年将校たちにとって聖典となったのです。
さらに事態を決定づけたのが、陸軍内部の凄惨な派閥抗争でした。精神主義と天皇親政を重んじる「皇道派」と、軍備の近代化と国家総力戦体制を目指す官僚肌の「統制派」が主導権を激しく争っていました。1935年8月、皇道派の相沢三郎中佐が統制派の筆頭であった軍務局長・永田鉄山少将を執務室で白昼堂々斬殺する「相沢事件」が発生。陸軍首脳部は皇道派の青年将校が多い第1師団に満洲(現在の中国東北部)への派遣を命じます。「満洲へ送られれば二度と昭和維新は成し遂げられない」。追い詰められた彼らは、出発直前の大雪の夜を決起の時と定めたのでした。