1972年2月17日、森恒夫は永田洋子とともに妙義山ベースから東京へ移動する途上、群馬県警によってあっけなく逮捕されました。最高幹部2人を失った残党5名は山中を逃走し、軽井沢の「あさま山荘」に人質をとって立てこもることになります。
取り調べ初期の森は、過激派の最高幹部としてのプライドを保ち、黙秘と傲慢な態度を貫いていました。取り調べを担当した捜査官に対しても革命理論をまくし立て、自分たちの行動は「正当な革命の生みの苦しみ」であると主張していました。
しかし、その強がりは長くは続きませんでした。取り調べ室のラジオや新聞を通じてあさま山荘事件の結末(警官2名・民間人1名死亡、メンバー全員逮捕)を知らされ、さらに自分たちが山中に埋めた仲間12人の遺体が次々と発掘されて全国に報道されると、森の精神は音を立てて崩壊していきました。
「森は取り調べ室で頭を抱え、机に突っ伏して号泣した。自らが振りかざした『共産主義化』が、単なる醜悪な集団リンチ殺人に過ぎなかった事実を、外部の現実社会の物差しで突きつけられた瞬間だった」(当時の警務関係者の回想録より)。
ネット上の掲示板やSNSでは、時に森恒夫を「血も涙もない冷酷なサイコパス」と単純化して語る言説が見られます。しかし、元メンバーである坂口弘の手記『あさま山荘事件』や公判供述記録を精読すると、浮かび上がってくるのはむしろ「小心で、理論の破綻を直視できず、自らの弱さを隠すために残虐な仮面を被り続けた凡庸な青年」の姿です。自分の言葉に呪縛され、引き返せなくなった独裁者のリアルな弱さがそこにありました。