百人一首の編纂意図を探る上で、避けて通れないのが後鳥羽上皇との複雑な愛憎関係です。かつて定家の才能を高く評価し、『新古今和歌集』の編纂を命じた後鳥羽上皇でしたが、やがて定家の傲慢な性格や美意識の相違から対立が深まり、定家は宮廷歌壇から一時追放される憂き目に遭いました。
しかし、承久3年(1221年)の承久の乱で鎌倉幕府に敗れた後鳥羽上皇は、隠岐島へ配流の身となります。かつての主君が流罪となり、失意のまま島で生涯を閉じた現実は、定家の心に深い影を落としました。
百人一首の配列を見ると、巻末の第99番に後鳥羽院、第100番に同じく配流された順徳院の歌が配置されています。乱の敗者として政治の表舞台から消し去られた上皇たちを、歌の頂点として末尾に据えた配列には、定家の痛烈な鎮魂の祈りと、権力に屈しない歌人としての気骨が込められていると読み解くことができます。