公式記録で直系が途絶えたにもかかわらず、「秀吉の子孫は現在も生きている」と語られる最大の理由は、秀吉の正室・ねね(北政所)の実家である「木下家」の存在にあります。
秀吉にはもともと高貴な出自がなく、武将として台頭する過程で名乗ったのが妻の実家筋に由来する「木下藤吉郎」の名でした。ねねの実兄である木下家定(きのした いえさだ)の一族は秀吉から羽柴・豊臣の名字を与えられ、親族として豊臣政権を支えました。関ヶ原の戦いにおいて木下家定は中立に近い立場を保ち、妹である高台院(ねね)を警護した功績などから、徳川家康から領地を安堵されます。
家定の系統はその後、豊後日出藩(大分県日出町)約3万石の木下家と、備中足守藩(岡山県岡山市)約2万5000石の木下家の2つの大名家として明治維新まで存続しました。徳川政権下で多くの豊臣恩顧の大名が改易される中、木下家は幕末まで一度も取り潰されることなく城主の座を守り抜いたのです。
この2つの木下家は華族令によって子爵家に列し、2026年現在の令和の時代に至るまで代々家系を継承しています。秀吉自身の遺伝子を受け継ぐ直系ではないものの、「豊臣一族の正統な後継」として木下の血筋は今も確かに息づいています。