空也上人の足跡は、京都だけに留まらず東国から西国まで日本全国に及んでいます。その波乱の生涯を時系列で整理します。
若き日の空也は尾張国(現在の愛知県)の分福寺で出家したと伝えられ、その後、諸国の霊山や難所を巡る過酷な修行の日々を送りました。各地で道を拓き、橋を架け、荒れ地を開墾しながら、民衆の生活を助ける旅を続けます。
天慶年間(938年前後)、京都に入った空也は、市中で念仏を唱え始めます。折しも京都では疫病(天然痘など)が大流行し、街中に死者があふれていました。空也上人は自ら泥まみれになりながら十一面観音像を荷車に載せて引き、市中を引き回して病魔退散の祈祷と死者の供養を行いました。
さらに、951年には鴨川のほとり、死者の埋葬地であった鳥辺野(とりべの)の入り口に道場を建立。これが現在の六波羅蜜寺の前身となる「西光寺」です。また、平将門の乱や藤原純友の乱(承平・天慶の乱)といった動乱で乱れた世を鎮めるため、自ら発願して大般若経600巻を金字で書写する大事業も成し遂げました。
972年(天禄3年)、空也上人は自らが開いた西光寺において70歳で示寂(死去)。生涯にわたって名利を求めず、寺院の権威にすがることもなく、市井の念仏行者としての立場を貫き通した人生でした。