日本三大怨霊の中で、最も強烈かつ長期にわたる呪詛を残し「日本最強の怨霊」と恐れられたのが崇徳天皇(崇徳院)です。平安末期、皇位継承と貴族社会の権力闘争が激化した保元の乱(1156年)において、後白河天皇側に敗北した崇徳上皇は讃岐国(現在の香川県)へと配流されました。
配流先で深い悔悟の日々を送った上皇は、五部大乗経の写経を完成させ、供養のために京の寺に納めてほしいと朝廷へ送りました。しかし後白河院は「呪詛が込められているのではないか」と疑い、経典を冷酷にも讃岐へ送り返したのです。この侮辱に激怒した上皇は、自らの舌先を噛み切り、その血で経典に恐るべき誓状を書き殴りました。
「日本国の大魔縁となり、皇を取って民とし民を皇となさん」――すなわち、皇室を滅ぼし武士が支配する国に変えてやるという呪詛でした。崇徳上皇は髪も爪も切らず、夜叉のような姿となって長寛2年(1164年)に崩御します。
その後、京都では大火や疫病が頻発し、後白河院の近親者が次々と怪死。さらに平家の台頭と滅亡、源平合戦を経て、約700年に及ぶ武家政権の時代へと突入しました。朝廷が権力を失い武士が天下を掌握した歴史の現実は、まさに上皇の呪詛そのものでした。明治天皇は明治維新の激動期、即位にあたって勅使を讃岐に派遣し、上皇の御霊を京都へ奉還して白峯神宮を創建。国家の守護神として慰霊を尽くすことで、ようやくその長きにわたる鎮魂を果たしたのです。