捕らえられた万福丸に対して信長が下した命令は、容赦のない処刑でした。太田牛一が記した信頼性の高い一次史料『信長公記』には、天正元年10月17日、美濃と近江の国境に近い「関ヶ原・野上(岐阜県関ケ原町)」において、万福丸が木標(もくひょう=磔あるいは串刺し)に掛けられた記録が生々しく残されています。
なぜ、信長はわずか10歳の少年に対して、武士の尊厳である切腹ではなく「串刺し・磔」という極刑を命じたのか。そこには当時の戦国法と信長の統治論に基づく明確な理由が存在しました。
第1に、「裏切り者に対する絶対的見せしめ」です。信長にとって浅井長政の離反は、妹の市を輿入れさせてまで結んだ同盟を一方的に破棄され、金ヶ崎の退き口で自らの命を危機に晒された最大の背信行為でした。裏切りの代償がいかに凄惨であるかを天下に誇示するため、罪人に対する処刑様式が適用されたのです。
第2に、「浅井宗家の完全な根絶やし(復讐の防止)」です。中世の武家社会において、滅ぼされた一族の男子が成長した後に旧臣を結集して蜂起する事例は枚挙にいとまがありません。源頼朝が生かされたことで平家が滅亡した歴史の教訓を、信長は冷徹に理解していました。
そしてこの処刑を現場で差配したのが、長政滅亡の功績によって浅井旧領(北近江三郡)を与えられた羽柴秀吉でした。秀吉にとって万福丸の処刑は、主君・信長への忠誠心を証明し、旧浅井領の領民や国人衆に対して「浅井の時代は完全に終わった」と知らしめるための避けられない通過儀礼だったのです。