「咳をしても一人」という句は、表面的には極めて単純だ。咳をする。でも誰も心配してくれる人はいない。ただそれだけのことを述べている。
しかしこの単純さの中に、いくつもの解釈の層がある。まず物理的な孤独。南郷庵には放哉しかいない。咳き込んでも、水を持ってきてくれる人も、背中をさすってくれる人もいない。病人が一人きりで過ごす心細さが、この句からひしひしと伝わってくる。
次に、病への恐怖。結核患者の咳は、単なる体調不良ではない。死への一歩一歩を刻む音だ。咳のたびに喀血する可能性もある。その恐ろしさを、誰とも分かち合えない。
さらに深い層には、存在論的な孤独がある。人間は本質的に孤独な存在だ。どんなに親しい人がそばにいても、痛みや苦しみは完全には共有できない。咳という生理現象を通して、放哉は人間存在の根本的な孤立を見つめている。