地震発生直後、大川小学校の児童たちは揺れが収まった後に教職員の指示で校庭へと整列・待機しました。校庭にいた児童のうち、津波から生き残ることができたのはわずか4名でした(教職員は1名のみ生存)。このうち、津波が校庭に到達する直前、あるいは泥流に呑まれながらも奇跡的に生還した子どもたちの証言は、当時の現場の緊迫した空気と判断の経緯を雄弁に物語っています。
生存した児童の手記やその後の公の場での証言によると、激しい揺れの直後から複数の児童や地域住民が「山さ逃げっぺ」「ここ(校庭)にいたら危ない、裏山へ行こう」と教員たちに直訴していました。子どもたちにとって、学校の裏山は椎茸栽培の学習や遊び場として日常的に親しんでいた身近な場所であり、高台への本能的な退避行動として裏山を指差していたのです。
しかし、大人たちの判断は定まりませんでした。約50分にわたって氷点下近い寒空の校庭に留め置かれた後、教職員と地域住民の間で下された判断は、裏山ではなく「約200メートル先の北上川堤防付近(新北上大橋のたもと=通称・三角地帯)」への移動でした。列を作って移動を開始したまさにその瞬間、堤防を越えて押し寄せた濁流が児童たちの視界を覆いました。その刹那、危険を察知して咄嗟に裏山の斜面に向かって駆け上がった児童や、渦巻く泥流の中で奇跡的に山の斜面の立木や倒木に引っかかり、這い上がって命をつないだ生徒がいたことが、当時の調査および裁判記録で明らかになっています。