慶応元年(1865年)閏5月11日、武市半平太は土佐藩新町御監牢において、37年の生涯を閉じました。その刑死には、幕末史において他に類を見ない壮絶な事実が秘められています。
山内容堂が下した「武市半平太 切腹 理由」の本質
藩主・山内容堂が下した公式な判決理由は「君命に背き、徒党を組んで藩政を乱した罪」でした。最大の容疑であった吉田東洋暗殺事件について、武市は過酷な拷問に耐え、最後まで自白しませんでした。
本来、主君殺害に匹敵する大逆罪であれば「打ち首(斬首)」が相当です。しかし、打ち首にすれば土佐の郷士層が暴動を起こす恐れがあり、何より武市の白札郷士としての格式と、彼の高潔な人望を容堂も無視できませんでした。結果として、「東洋暗殺の首謀」は不問のまま、「不敬の罪」として武士の名誉を保てる切腹が命じられたのです。これは容堂なりの政治的妥協と冷徹な幕引きでした。
前代未聞「三文字割腹の真相」と最後の気迫
命じられた武市が選んだのは、切腹の作法として最も過酷とされる「三文字割腹」でした。通常、切腹は腹を一文字、あるいは十文字に切り裂いた段階で即座に介錯人が首を落とします。激痛による武士の苦悶の姿を晒さないための配慮です。
しかし、武市は腹を左から右へ、上下に三度平行に切り裂く「三文字」を自ら実行しました。腸が露出するほどの激痛の中、武市は取り乱すことなく刀を置き、自ら正座の姿勢を正して首を差し出し、介錯人(島村寿之助・安岡覚之助)に合図を送ったと伝えられています。
なぜ武市はこれほどまでに凄絶な最期を選んだのか。それは「自分は私利私欲で動いた逆賊ではなく、至誠の武士である」という無実の主張と、自分を断罪した山内容堂に対する命を賭した無言の抗議でした。
辞世の句:
「ふたゝひと 返らぬ歳を はかなくも 今は惜しまぬ 身となりにけり」