北京を手中に収めた清でしたが、広大な中国全土の平定にはなお多くの歳月と血が流されました。南方に逃れた明の皇族たちが樹立した「南明政権」の残党勢力が激しく抵抗を続けたためです。
清は巧みな「アメとムチ」の政策を使い分けました。満洲族の風習である「辮髪(べんぱつ)」を漢民族に強制し、従わない者は容赦なく処刑する(「頭を留むる者は髪を留めず」)一方で、官僚ポストを満洲人と漢人で同数ずつ登用する「満漢偶数官制」を導入し、科挙を継続して漢人エリートを政権中枢に取り込みました。
中国統一が名実ともに完成したのは、名君として名高い第4代康熙帝(こうきてい)の治世です。康熙帝は以下の大事業を次々と成し遂げました。
第一に、清の入関に貢献した漢人武将たちが南方に築いていた半独立王国を一掃した「三藩の乱(1673〜1681年)」の鎮圧です。第二に、台湾を拠点に反清復明運動を展開していた鄭成功一族の政権を降伏(1683年)させ、海域の完全平定を達成しました。
これにより、満洲、モンゴル、中国本土(漢地)、台湾を包含する強大な統一帝国が完成し、続く雍正帝・乾隆帝へと続く清朝最盛期の礎が固まりました。